「孫たちへの証言」
2010.09.14.09:55
新風書房というところから、「孫たちへの証言」という本が
http://www.shimpu.co.jp/mago/
毎年八月に出版されているそうです。
これは、戦争体験をされた方々からの体験談を募集して
作られている本だそうです。
今年出版された第23集に、私の父の体験が掲載されました。
父は12歳の時に、通学途中、列車にのっていて機銃掃射の銃撃にあい、きき手である右腕を
失いました。
大きな破壊力のある機銃掃射だったらしく、その弾丸は
列車の車体の鉄をも貫くものだったそうです。
多くの人がそこで命を失いました。
父と一緒に列車にのった友達も亡くなったそうです。
父は列車に偶然のっていた
医学生の止血の処置がよかった御陰で命をとりとめました。
麻酔もなく手術が行われ、手術の翌日、病院のある東岡山も空襲の
おそれがあると言われ、そのまま退院したそうです。
それから数週間後に戦争は終わりました。
父は左手を利き手として
使うべくひたすら努力をしたそうです。
原稿には泣きながら、、と書いてありました。
無理もありません。大人だって耐えがたいことを12歳の少年が
何の社会的サポートもなく乗り越えるのですから。
私は、最近まで父の口からその話を聞いたことがありませんでした。
小さい頃、一緒にお風呂に入ったときに、腕ばかりでなく
足にもお腹にも大きな傷があることが、不思議ではありましたが
私にとっては、それが「父の身体」であり
だから、それについて質問したこともありませんでした。
父は怪我をしたあと、勉強を重ねて、大学へ進み
さらに大学院にすすみ、そして福祉の会社に就職しました。
そして結婚して、私と兄を育て、二人を私立の大学に通わせてくれました。
父は何でもできたので、手が不自由であるということを
私は全く感じないで私は大きくなりました。
父は自転車にものれたし、自動車の運転も上手だったし、日曜大工も上手。
掃除も洗濯もできたし、台所にたつこともできました。
本当に普通の人と何もかわらないぐらい、それ以上に何でもできました。
私にとっては、それが当たり前の父の姿だったけれど
父の戦争体験を読んで、それができるようになるまでに
どれだけの苦労があったのだろうと思い、胸が痛みました。
そして、そうやって苦労して使えるようになった左手が
二年前の脳出血で動かなくなりました。
その事実を知ったら、父がどうなってしまうんだろうと
私はそれだけが心配でした。
だって、自由になる手がなくなるのですから。
しかし、目覚めて事実を知った父は私に言いました。
「どんな時もね、目の前にあることを文句を言わずに
一つずつやっていけば必ずものごとは解決していくもんだよ。
だからリハビリを頑張ってやったらきっと動けるようになる。」
私はそれに対して何も言うことができませんでした。
何か言ったら泣いてしまいそうだったから。
そして二年たち、父の手足はずいぶん回復してきました。
思い通りに動く手がないので、生活はまだまだ不便ですが
父は病院で目覚めた時に言った通り
毎日、山ほどあるリハビリメニューをきっちりとこなし
日々どんどん身体が自然に動くようになってきています。
今年77歳になった父は
パソコンをつかって仕事もしているし、時には会社の会議にも出席しています。
コップを持って水ものめるし、一人でお風呂にも入れるし
ご飯も一人で食べられるようになりました。
目薬をさすこともできるようになりました。(これは、とっても大変なことなんです)
今は辞書をひきながらイタリア語の童話を訳して
勉強をしたりもしています。
リハビリの先生は口々にここまで良くなった人はみたことがないと
おっしゃり、何かあると研究発表の場で父の症例が
発表に使われているとのことです。
父の人生を改めて、すごいものだと思うのと同時に
我が父ながら、その強さに感動します。
そして、思うのです。あの、父の乗った列車が銃撃を受けた日
医学生が乗っていなくて、父がその場で息絶えていたなら
私は今存在しないのだと。
命がどんなに、きわどいところでつながれて
私のところまでつながったのかを、しみじみ感じます。
日本の歴史は平和な時代ばかりではなく
当たり前のように人が亡くなっていく時代がたくさん
あったわけで、その中で奇跡的につながってきた命のバトンを
受け取った人が、今この世にいる人なのだと思うと
「生きている」ということに感動さえ覚えます。
人が生まれることは、数えきれないほどの偶然が重なって
おこるもの。
父の原稿を読んで
自分がもらった命の有り難さを改めてかみしめた私でした。
http://www.shimpu.co.jp/mago/
毎年八月に出版されているそうです。
これは、戦争体験をされた方々からの体験談を募集して
作られている本だそうです。
今年出版された第23集に、私の父の体験が掲載されました。
父は12歳の時に、通学途中、列車にのっていて機銃掃射の銃撃にあい、きき手である右腕を
失いました。
大きな破壊力のある機銃掃射だったらしく、その弾丸は
列車の車体の鉄をも貫くものだったそうです。
多くの人がそこで命を失いました。
父と一緒に列車にのった友達も亡くなったそうです。
父は列車に偶然のっていた
医学生の止血の処置がよかった御陰で命をとりとめました。
麻酔もなく手術が行われ、手術の翌日、病院のある東岡山も空襲の
おそれがあると言われ、そのまま退院したそうです。
それから数週間後に戦争は終わりました。
父は左手を利き手として
使うべくひたすら努力をしたそうです。
原稿には泣きながら、、と書いてありました。
無理もありません。大人だって耐えがたいことを12歳の少年が
何の社会的サポートもなく乗り越えるのですから。
私は、最近まで父の口からその話を聞いたことがありませんでした。
小さい頃、一緒にお風呂に入ったときに、腕ばかりでなく
足にもお腹にも大きな傷があることが、不思議ではありましたが
私にとっては、それが「父の身体」であり
だから、それについて質問したこともありませんでした。
父は怪我をしたあと、勉強を重ねて、大学へ進み
さらに大学院にすすみ、そして福祉の会社に就職しました。
そして結婚して、私と兄を育て、二人を私立の大学に通わせてくれました。
父は何でもできたので、手が不自由であるということを
私は全く感じないで私は大きくなりました。
父は自転車にものれたし、自動車の運転も上手だったし、日曜大工も上手。
掃除も洗濯もできたし、台所にたつこともできました。
本当に普通の人と何もかわらないぐらい、それ以上に何でもできました。
私にとっては、それが当たり前の父の姿だったけれど
父の戦争体験を読んで、それができるようになるまでに
どれだけの苦労があったのだろうと思い、胸が痛みました。
そして、そうやって苦労して使えるようになった左手が
二年前の脳出血で動かなくなりました。
その事実を知ったら、父がどうなってしまうんだろうと
私はそれだけが心配でした。
だって、自由になる手がなくなるのですから。
しかし、目覚めて事実を知った父は私に言いました。
「どんな時もね、目の前にあることを文句を言わずに
一つずつやっていけば必ずものごとは解決していくもんだよ。
だからリハビリを頑張ってやったらきっと動けるようになる。」
私はそれに対して何も言うことができませんでした。
何か言ったら泣いてしまいそうだったから。
そして二年たち、父の手足はずいぶん回復してきました。
思い通りに動く手がないので、生活はまだまだ不便ですが
父は病院で目覚めた時に言った通り
毎日、山ほどあるリハビリメニューをきっちりとこなし
日々どんどん身体が自然に動くようになってきています。
今年77歳になった父は
パソコンをつかって仕事もしているし、時には会社の会議にも出席しています。
コップを持って水ものめるし、一人でお風呂にも入れるし
ご飯も一人で食べられるようになりました。
目薬をさすこともできるようになりました。(これは、とっても大変なことなんです)
今は辞書をひきながらイタリア語の童話を訳して
勉強をしたりもしています。
リハビリの先生は口々にここまで良くなった人はみたことがないと
おっしゃり、何かあると研究発表の場で父の症例が
発表に使われているとのことです。
父の人生を改めて、すごいものだと思うのと同時に
我が父ながら、その強さに感動します。
そして、思うのです。あの、父の乗った列車が銃撃を受けた日
医学生が乗っていなくて、父がその場で息絶えていたなら
私は今存在しないのだと。
命がどんなに、きわどいところでつながれて
私のところまでつながったのかを、しみじみ感じます。
日本の歴史は平和な時代ばかりではなく
当たり前のように人が亡くなっていく時代がたくさん
あったわけで、その中で奇跡的につながってきた命のバトンを
受け取った人が、今この世にいる人なのだと思うと
「生きている」ということに感動さえ覚えます。
人が生まれることは、数えきれないほどの偶然が重なって
おこるもの。
父の原稿を読んで
自分がもらった命の有り難さを改めてかみしめた私でした。
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